「大人の貧困を先に解決してから子どもの貧困を」と言う人は、大人である自分を救ってもらいたい甘えだけでなく、新たな弱者を作り出しています。
【 目次 】
「大人が貧困だから、人助けできない」は嘘
考え方の矛盾点
「大人の貧困が原因で困っている人に声掛けできず、社会的弱者にしわ寄せがいく」は絶対嘘です。
その理屈が通れば、昭和20年代や30年代で日本は滅びています。
あの時代はみんなとても貧しかった。長屋住まいも多かったですし、生活していくのにかつかつだったそうです。亡き母から聞いたことですが、ご近所ではお金の貸し借りだけでなく、米や醤油の貸し借りもあったとか・・・今からは考えられない時代でした。
しかし、社会的なつながりは今よりずっと濃かった。地域のセーフティネットができていたのです。頼り頼られるに貧困は関係ありません。
反対に、貧困でも社会的なつながりがあれば、何とか生きていけます。それがなくなったから、弱者自体が見えないのです。
近所づきあいが希薄でも自治会に入っていてくれれば、民生で困窮者を見つけられることもありますが、自治会加入率は下がり続けています。
大人の貧困原因論は危険
生活困窮者や社会的弱者への援助は、金持ちだからできるわけではありません。
それを、「大人の貧困を片付けてから」などと、悠長なことで後回しにする、または、「大人である自分たちへの援助を前提とする」考え方には怒りを感じます。
とくに、コロナ禍以降、事態は急を要しているからです。
子ども食堂など、子どもの貧困をテーマにするとくる「子どもの貧困は大人の貧困が原因だから、先に大人を何とかせい」との屁理屈。
「大人=自分たちが恵まれていないから、子どもになんかやらないよ」という考えです。
なぜ大人vs子供と対立させて、相対的な見方しかできないのでしょうか?
貧困は複合要因で起こる
貧困は1つの原因で起こるわけではありません。
暴力、非正規雇用、ひとり親家庭、疾患、学習障害や社会的な認知のずれなど、いろいろなものが複合して起こります。
例えば、非正規雇用者を正規雇用にさせても、社会的な認知のずれがひどければ、結局はうまくいかず離職して困窮に戻る。パートナーからの暴力でひとり親家庭となり困窮する。原因は1つだけではないから難しいのです。
しかし、そこに社会的なつながりがあれば状況は好転してきます。
「ひとりではない。気にかけてくれる人がいる。」ということだけでも、「あきらめないで何とかしてみよう。」という気力がわきます。また、専門的な人がうまくつながれば、うまくいく確率も高くなります。
大人の貧困原因論は新たな弱者を生む
大人の貧困原因論は、子どもを抱えて困窮している人を苦しめています。
小さな子供を抱えたシングルマザーに対してのしわ寄せは、その考えが大きいと思います。
大人の貧困原因論は大人である自分のことだけしか考えられないため、子どもを抱えての経済困窮の原因さえ推測できません。
新たな弱者を生み出していると言えるでしょう。
大人の貧困原因論は社会的認知の歪み
ましてや「自分が恵まれない」という個人的な怒りで、子どものような弱者や社会的養護者を攻撃するのは、完全な筋違いです。
その風潮が、今の日本をここまで住みにくくした元凶なのです。
弱者が自分よりもっと弱い人を探ししていじめて、つるし上げる。
それが集団となりヒステリー化したのがネット中傷です。
社会的弱者を見つけ出すのがトレンドにさえなっています。
それを作り出したのは、相対的にしか物ごとを見ることができない視点の歪みと、他人のことを自分ごととして感じ、かつ、有効な解決策を導けないという、「人間としての成長の無さ」です。
怒りだけでは人は満たされない
怒りは原動力にはなるでしょう。しかし、それはマッチやライターのようなもの。
常に発火を繰り返していることなどできません。また、周囲を燃やし尽くしても何も生まない。
それがわかっていても繰り返す人は、人を破滅させたいだけです。
一緒にいる人が怒り続けていたら、周囲はその怒りの炎で焼き尽くされてしまいます。
本当に困窮している人に怒りを与えても、彼らにとっては何の得にもならない。それだけでなく、彼らを追い詰めてしまう。
彼らに本当に力づけたいならば、怒りではなく、心のこもった声掛けからです。
行動が大切
金持ちでなくても援助はできる
私には、バングラディシュにも日本にも応援しているティーンがいますが、決して金持ちではありません。
100円のものを買うのに躊躇することだってありますし、何か欲しくても特売まで待って我慢することも多いのです。248円と198円ならば、迷わず後者を選びます。
ひとつのものを大事に使い、30年以上前の洋服を着ていることもあります。
外食もほとんどしませんし、鈍行で行ける時間的余裕があれば新幹線も使わない。
そうやって、少しでも余裕ができれば、お金を弱者に回す。
「お金は循環してこそお金」。
お金は貯めるためにあるのではない。貨幣通貨は循環してこそ役目があるからです。
また、弱者が困窮して犯罪を犯したり、社会保障を使ったりすれば、我々の税金からその資金を供出しなくてはならない。これは健全ではない負担です。
だからこそ、健全にするにはどうしたらいいかを考えて行動すべきなのです。わかっているから行動する。頭の中で考えていても、啓発なんかに力を入れても、人を救う行動をしなければ、人は救えません。
あなたは行動しましたか?
今回の幼児衰弱死事件で「困っている人に何かしてあげられなかったのか」という言葉もありましたが、だったらあなたが困っている人に何かをしてあげればいい。
あなたが弱者のために行動すればいい。
「大人が貧困だから手助けできない」というのは、単に行動しない言い訳にすぎない。行動している人間からすれぱ、卑怯な屁理屈です。
最近も「貯金が300円未満しかなくて・・・」という報告も受け、慌てて援助しました。これを放っておけば餓死です。
啓発だけの団体は必要ない
私は啓発だけの団体を信用しません。
啓発だけで困窮者のお腹が満たされますか?住居や食料になりますか?
啓発して「自分がいいことをしている」という自己満足、自己欺瞞のかたまりにすぎません。
加えて、啓発だけでは「自分たちだけの正義」を生むため、新たな争いをつくります。
必要なものを必要な人に届ける
災害や事件のあるときは、いろいろな援助が必要となります。
しかし、マッチングがうまくいかないと、役にたたないばかりかお荷物になってしまいます。
災害体験者によると、いちばん重宝したのはお金の振込だったそうです。お金は循環のための道具ですから、手に入れたい物資がそこにある限り、物資を購入することができます。反対に、物での援助は自分たちの必要なものとずれていたこともあったとのことです。
私も、先日、応援しているシングルマザーにおむつセットを送ったのですが、赤ちゃんが皮膚の弱いことを知らなかったので多分使えなかったのかも・・・と反省しています。先に、必要なことを聞くべきでした。
援助される側は言いにくいので、援助する側がなんでも話してもらえるように気を遣えるといいですね。
まとめ
大人の貧困原因論は新たな弱者を生む危険があります。本当に弱者を救うならば、大人の貧困原因論には耳をふさぎ、ぐだぐたいわずに即行動!援助される人とコミュニケーションをとり、必要なものを必要な人にの循環をつくってほしい。
弱者を救うことは経済を回すだけでなく、税金や社会保障費の削減にもなります。